小町生誕の碑概要: 案内板によると「平安初期、今から約1200年前、夏井川上流のこの地方は七里ヶ沢と呼ばれていた。この頃、後の参議(今の国務大臣)小野の岑守は陸奥守として長男篁とともにこの地を開発し、小野六郷を定めて、中央文化を導入し、産業を指導し、経済を教え、学問を広め大いに殖産産業に努めた。
小野家の館は、はじめ集落の密な矢大臣山麓にあったが、のち六郷の開発のための地の利と生活の便のため、温泉の湧く(当時は山寄りで温泉は河原に出ていたと思われる)谷津の地の、夏井川畔の小高い丘に館を造って居を移した。広壮な谷津の館には、各郷の長者の女が出任していたが、中でも優れた美貌の愛子を愛し、まもなく美しい女子が生まれた。
その娘こそ、後に、日本の代表的美人として、その名を後世までうたわれた歌人「小野小町」である。その後、篁は朝廷の名により新任務につくため、京都に旅立った篁の善政にその徳を慕う住民は、心から別れを惜しみ沿道に見送る人々は千数百人を数えたという。
それ以来、安積郡、小野郡と呼ばれたこの地は「小野」という地名を守り現在に至っている。」とあります。近くには「愛子墓碑」や「鬼石」、「小野篁館」、「珍敷御前(愛子)神社」、「篁神社(矢大神社)」など小野小町縁の史跡が点在しています。
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