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小町伝説概要: 秋田県湯沢市雄勝町は小野小町の生誕と終焉地とされています。周辺には沢山の小野小町の伝承、伝説の史跡が密集していまが、其のほとんどが口伝として伝わっているだけで確証はありません。全国には小町に縁のある都道府県は28に登り実に100箇所以上に伝説や伝承が伝わっています。世界三大美人と云われ、歌人としても秀でた才能を持っていた小野小町とはいったいどの様な人物なのでしょうか?小町探しの旅を始めてみます。
※メニューの各史跡説明は2段に別けています。上段は現地にある案内板の内容を掲載しています。基本的には小野小町の伝説を主として説明しています。下段は管理人の個人的な意見です。参考程度にあつかってください。又、小さい写真をクリックすると拡大されますので興味のある方は御覧になってください。
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小町の人物像概要: 小野小町は平安時代の歌人の1人で当時六歌仙・三十六歌仙の1人に数えられるほど、歌に関して秀でた人物でした。特に百人一首などで歌われた有名な歌に「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」などがあります。又、容姿端麗で宮中一と云われ、今ではエジプトのクレオパトラや中国の楊貴妃と共に世界三大美人と呼ばれています。その為か多くの伝承や伝説など全国各地で見られ、不明な点も多いそうです。一般的には出羽郡司(現在の秋田県と山形県)だった小野良実の娘とされ、仁明天皇や文徳天皇に仕えていたそうです。生誕や終焉の地には諸説ありはっきりしないようです。
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雄勝町の伝説概要: 雄勝町に伝わる伝説で一般的な話をすると、小町は大同4年(809年)に出羽郡司小野良実の娘として、良実の家居である福富の荘で生まれました。その土地は当時この土地では珍しい桐の木が生えていたので桐ノ木田と呼ばれていました。生母は地主の娘とも言われていますが、菅江真澄が書いた日誌「小野のふるさと」では鹿とされています。そして小町が生んだ後体調をくずし早くして亡くなりました。そのお墓が「姥子石」と呼ばれています。13歳にして京都の宮中に上がり時の帝に仕えましが、その後36歳になり、再び小野郷(雄勝町)へ帰って来ました。「小野のふるさと」では9歳で宮中に上がったとあります。深草少将は小町を思うあまり、願い出て出羽郡代職に着き長鮮沢にある長鮮寺に居を構えます。ここで小町と深草少将の恋文のやり取りが行われ、現在でも隣の集落は御返事という名称が付いています。その頃小町は疱瘡を患っており、少将とは直接会うことが出来ず、小町は毎日芍薬を1本づつ植え、100本になったら直接会う約束をしました。その間、小町は毎日磯前神社にお参りし、境内から湧き出る泉で顔を洗っていたと言われています。しかし、99本植えた後、暴風雨となり少将が橋を通った時川が氾濫し、橋ごと少将が流され、死んでしまいました。その後小町は少将の亡骸を二つ森に埋葬し、晩年は岩屋堂に篭もり自像を彫ったと云われています。享年92歳。実はこれと同じ様な話が全国で数例あり興味の尽きないところです。
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小野小町
〜小野小町、生誕と終焉の伝説の地秋田県湯沢市雄勝町を訪ねて〜
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