江戸時代、菅江真澄という民俗学の祖とも言われる紀行家が晩年秋田で様々な地誌や日記、紀行文を書いています。そしてここ雄勝町にも様々な足跡を残しています。小町堂にある案内板によれば「江戸時代中期の民俗学者、紀行家、本名白井秀雄、三河の人、1784(天明4年)31才出羽へ入国東北各地を巡遊すること40年、当時の民間記録を含め、貴重な資料が蒐集されている。その中の「雪の出羽路」小野のふるさとには当時の小野村に伝わる小野小町の郷土伝承が刻銘に描かれている。1829(文政12年)7つき、76才角館にて死去する。」とあります。ここで小野小町の伝承が江戸時代の中期にはすでに存在していたことを証明しています。それでは菅江真澄がどの様に伝承を伝えているのか検証してみます。ここでは平凡社から出版している「菅江真澄遊覧記、内田武志、宮本堂一訳」を参考とし、緑字で表記していきます。 |
・・・(中略)中泊、水口、十日町、幸村(雄勝郡雄勝町)は、すべて西馬音内の庄小野郷という。そのむかし、出羽の郡司小野良実の住まれたという家居のあとは、桐ノ木田というところに、めぐりの堀のあとがかたばかり残っていた。 |
現在の小野小町が産湯として使ったとされる桐木田の井戸(※ 自然石が5角形に組まれており当時の京文化の遺構ともいわれています。)が小野良実の家居の遺構だとされています。江戸時代にはまだ掘の跡が残っていた事が窺えますが、現在では周囲は耕作地や宅地などに造成されてよく分かりませんでした。 |
良実が建てた菩提の寺は桐善寺といい、古くは天台宗に属したが、中昔から禅宗にかわった。 |
桐善寺に関しては諸説ありどうもはっきりしない点が多いようです。このサイトが参考にしている「秋田のお寺」では前身は龍音寺(天台宗)が有力とされ元々が寺沢にありキリシタンの事件後、桐ノ木田、そして現在地へと移ったそうです。菅江真澄の説が正しいとすれば元から桐ノ木田にあったと思われます。湯沢市の案内板では深草少将の館跡の説明はありますが良実の菩提寺とは書かれていません。 |
小野村に至ると、金庭山覚厳院という山伏寺があった。あれこれのことを尋ねたく、この寺院を訪ねると、主人のいうことには、わが先祖は38代先を円明坊といって、天台宗の流れをくんで、良実につきそい都から来てここにとどまったと昔のことを語った。
「むかし、津軽の守の御使いが、一夜、わたしくしの家に泊まって、「あの梁にかっかているのは何か」と尋ねるた。「何であるかは知らないが、ただ昔からこのように紙に包み、八重縄でゆわえてある」と答えると、「秘密なものであってもけっして人には語らない。中を見せてくれ」としきりに頼むので、鎌で落とし開いてみると、たいそう古い木ぎれのような琴であった。これは小野家の調度であろう。また小町姫のもてあそんだものであろうかと思われる、津軽の人は「この琴をなんとかゆずってくれ」と、いくらかの黄金を出して買いとっていったといい伝えております。」
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金庭山覚厳院とは現在のどの寺かは良く分かりませんでした。話の由来などから向野寺とも思いましたが、話の下りに別に出てくるので異なります。熊野神社の別当のような存在だったのではないかと思いますが? |
「熊野神社がここにあるのは良実が建てられ、この国では見かけない瓦ぶきで、大きな建物だと評判であったが、今はすっかり衰えて小さい社になってしまいました。このあたりを耕すとわれた瓦がたくさん鍬にあたります。昔からみれば、道なども場所がかわったのでしょう。むかし、人家があったのは、向こうの木々がむら立っているあたりです。」などと話した。熊野神社に詣でた。この御社の左はこがねのみや、右は和歌のみやと申している。 |
熊野神社は現在は1つの建物しかなく、こがねのみや、和歌のみやは現存していません。案内板には文禄年間(1558〜1570)に最上勢に焼き討ちされたと書かれている事から一旦焼失してから現地に再建されたと思われます。現在の社殿が当時と比べどの程度小さいのかは良く分かりませんが時代が経つに連れ規模が縮小してきたようです。 |
里の人は「小町姫(小野小町)は9つの年に都へのぼり、また年頃になってからこの国にきて、植えられた芍薬というのが、田の中の小高いところにあります。さあ、いらしゃい、お見せしましょう。」といって案内した。その周辺にしば垣を結いめぐらしたなかで、やがて咲こうとするえびす薬の花が茂っていた。これは昔から99本あtって、花の色はうす紅で、他の芍薬とはいささか異なるという。この花の盛りを待って田植えをはじめるとのことである。・・・・(中略) |
前述しているのは芍薬塚のことだと思われます。当時は周辺が田んぼで囲まれ小高いところにあったそうですが、現在はかなり多くの人家が建って地形の変化はほとんど読み取れません。99本の芍薬の姿も見れず平成7年に建てられた小町堂が建っています。ここで多少気になるのが小町の都へ行った年です。菅江真澄は9才と記述していますが、小町堂の案内板には13才となっています。基本的には口伝による言い伝えなので解釈の仕方や人や家によって違いが出てきたのかも知れません。逆に言えば絶対的な確証のようなものは無いとも言えます。 |
・・・・(中略)田園のなかの二つ森というのは、むかしの八十島のおもかげばかりが残ったものである。むかしはここを雄物川が流れていたという。岩屋というところに老いてから小町がしばらく住んでいたと語り、また聞きつたえられた歌として「有無の身やちらで根に入る八十島の霜のふすまのおもくとぢぬる」これは小野小町が詠んだものである。 |
前にも述べましたが、実際岩屋堂で住むのはあまりにも大変です。広さは十分ですが、年老いた老女が住んでいたと考えにくいと思います。写真は4月半ばに撮影したものですが、まだまだ残雪が残っていました。小野小町の菩提寺と呼ばれる向野寺の前身の小野寺が岩谷堂の近くにあった事から、普段はこちらで過ごし、足繁く岩屋堂に通ったと考えるの妥当かも知れません。岩屋堂付近には小川や小滝などありかなり静寂な雰囲気で杉の木立の隙間から長鮮谷まで見ることが出来ます。※ 当然小町が小野の郷へ帰っていたらの話です。 |
二つ森は小町が在世のとき、深草の少将の塚を築かせ、自らの塚も前もってこの塚に並べて作らせて、わたしくしが世を去ったなら、必ずここに埋めるようにと言いのこし無くなった。・・・(中略) |
現在、二つ森は3方を国道と道の駅、公園に囲まれて当時からの風景から一変しました。唯一西側のみが田圃になっていて雰囲気を残しています。2つの小さな丘の上には祠や石碑があり麓には社があります。深草少将や小野小町の墳墓という確証はありませんが、田圃の中に浮かぶ二つの小山は集落住民から崇敬の対象になっていた事が窺えます。前にものべましたが、隣接する西馬音内(推定地)には雄勝城が建てられ、雄勝地方の中心となっていました。中央との繋がりも深かったとこ考えられ、この小野郷でもその影響があり小町では無いにしろ高貴な方が埋葬されていた可能性はあると思います。 |
・・・(中略)野中村の野中山小野寺というのも、ゆかりのある御寺である。本尊の千手観音は定長(定朝)が作られたもので、今もおわします。慈覚大師は小町姫の古い手ならいのほご紙を集めて、死んだ後の姿を作りなさった。今も残っているそれを、三途川のうばと人ごとにいっている。むかし藤原の実方朝臣がこの里にめぐってきて、「なきあとやありしむかしの雲の月小野の人かなしばしあひみん」と歌ったと聞き伝えておりますと語り終わって、この老人は小道にはいって行った。・・・・(後略) |
この話は向野寺の事を指していると思われます。向野寺の前身は小野寺と言い現在地から雄物川を挟んで反対側にありました。小野小町が晩年住んだとされる岩屋堂の近くです。ここで疑問なのは慈覚大師が作ったとされる小町の像のことです。多分、現在の小町像のことを指していると思われますが、案内板やその他の多くはは小町自身が彫ったとされています。ここで先ほど述べた金庭山覚厳院が再び出てきます。 |
・・・(中略)ふたたび山伏寺にかえると、主人はよろこんで迎えて、なにかとねんごろに語りあった「むかしは、たくさんの宝を持ち伝えていたが、最上義光の戦のころ、戦火に焼けて失った。どういうわけか、この小町の御姿ばかりは残った」といって、たいそう古い木造を拝ませた。・・・・(後略) |
ここに出てくる金庭山覚厳院が所有していた小町の御姿の木像は現在の向野寺の小町像の事なのでしょうか?金庭山覚厳院はいったいどこに行ったのでしょうか? |