愛子墓碑(小野町)概要: 詳細は解りませんが、中央にある五輪塔が小野小町の母親とされる愛子の墓碑とされます。小町の父親とされる小野篁の居館の西側の山林の中に安置され、墓碑の前には花が飾られている所を見ると現在でも管理する人がいるようです。
古くは大榎の二本茂りその間に祠がありましたが、道路及び磐越東線開通工事のために珍敷御前(愛子)神社として鬼石の傍に遷宮したそうです。
小野町では愛子(珍敷御前)は地元の長者の娘で篁の居館に出仕して見初められたとの伝承が残っていますが、隣接する田村市の滝根町では別の伝説が残っています。
滝根町史によると「昔、平安期初期の頃、都の薬師・猿丸大夫菅谷に住みたりしと云ふ。人々其の勢大にして又田畑を多く持ちしかば、其の居れる所を長者屋敷と呼び、其の所有の田畑を猿内と称したりと云ふ。大夫菅谷に来りて野人を婚り女の子を生ましむ。此の娘は後小野篁の妾となり、小野小町を生みたると云うなり。」とあり、猿丸大夫と地元の女性との間に出来た子供が愛子(珍敷御前)として伝えられています。
因みに猿丸大夫とは三十六歌仙の一人で「大夫」とは五位以上の官位を得ている者の称号なので位の高い人物だった推定されています。
しかし、正式な歴史書や古文書では該当する人物がいない事から実在を疑問視する説や実在する人物が現在で云うペンネームのように使ったとする説などがあります。
又、地域によって猿丸大夫の出生も異なり、「日光山縁起」や「二荒山神伝」では日光二荒山神社(栃木県日光市)の神職だった小野氏は猿丸の後裔で、その猿丸は陸奥国小野郷の出身者ととして表現されています。
小野郷も福島県の下郷町説や、小野町説、新潟県の阿賀町説、山形県の庄内町狩川説などがあり明確には解っていません。
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